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第五福竜丸被曝事故(1954年)
第五福竜丸の被曝事故は、日本放射線影響学会が設立されるきっかけとなった事故であり、当学会の放射線災害対応に関する検証の対象にはならない。ここでは、主に第五福竜丸被曝事故の経緯と科学者の対応について記す。
この第五福竜丸被曝事故は、日本に重大な影響を与えたばかりではなく、世界においても大きな衝撃を与えた。米ソの膨大な核実験計画とともに、放射能への恐怖の世界的な広がりを受け、1955年に国連は、核実験による環境影響や健康影響を調査するための組織「原子放射線の影響に関する国連科学委員会 (UNSCEAR:United Nations Scientific Committee on the Effects of Atomic Radiation)」を設置、核兵器の廃絶・科学技術の平和利用を物理学者のアインシュタインが提唱し、湯川秀樹を含む9名の学者の賛同署名を得て1955年に提示された「ラッセル・アインシュタイン宣言」、さらにこの宣言に基づき、全ての核兵器および全ての戦争の廃絶を訴える科学者による「パグウォッシュ会議」が1957年に開催された。
シンポジウム5:「ビキニから50年:環境放射能研究の過去と未来」
座長:村松康行(放医研)、廣瀬勝己(気象研)
S5-01 ビキニ水爆実験による第五福竜丸乗組員の被ばく
明石真言(放医研)
S5-02 フォールアウト全盛期の環境放射能
岡野真治(放影協)
S5-03 その後のマーシャル諸島の放射線環境
高田 純(広島大学)
S5-04 大気中の物質循環研究とフォールアウト
五十嵐康人(気象研)
S5-05 海洋中の物質循環研究とフォールアウト
山田正俊(放医研)
S5-06 総合討論:環境放射能研究の今後
コメンテーター:山本政儀(金沢大学)、高橋知之(京都大学)
さらに、2007年11月17日、千葉市で開催された日本放射線影響学会第50回大会(安藤興一大会長)に引き続き、同学会と放射線医学総合研究所との共催で、市民講座「第五福竜丸を振り返って」が開催された。この講演会では、第五福竜丸の当時の漁労長の見﨑吉男氏、静岡大学名誉教授長谷川圀彦氏、静岡新聞社会部記者の木村力氏が、それぞれ異なった視点から被曝事故を振り返った。さらに、それぞれの講演の後、明石真言氏(放射線医学総合研究所)の司会により、3氏を含めたパネルデイスカッションが行われた。
1.事故の経緯
1954年3月1日、ビキニ環礁での米軍による水爆実験「キャッスル作戦」に巻き込まれた漁船第五福竜丸が、ビキニ環礁の水爆実験によるフォールアウト(放射性降下物)を浴びたために乗組員23名が被曝し、急性放射線症発症する事態となった。また、同時に海洋汚染に伴う水産物の放射能汚染が問題となり、とりわけ「原爆マグロ」等放射性核種に汚染したとされるメバチ、キハダマグロなどが検査後廃棄された。さらにこの核実験以降も、ビキニ環礁付近で多くの漁船が操業しており、これらの漁船の水揚げも処分された。この事故以降、「原爆マグロ」という造語が生まれ、全国的に魚が敬遠され、市場が一時閉鎖される等、漁業に対する風評被害が与えた損害は非常に大きい。2.第五福竜丸事故による人体影響
米国の水爆実験は機密事項であったため、第五福竜丸の乗組員は放射線被曝の危険を認識することなく、核分裂による放射性降下物を全身に被りながら約4〜5時間作業を行った。その後、放射性物質により汚染された船上における約2週間の生活により、乗組員は外部被曝と内部被曝を受ける事態となった。乗組員23名の被曝線量は、個人により異なるが、外部被曝線量は少ない人で1.7-2.2Gy、多い人で6.6-6.9Gyと評価された。ヨウ素による甲状腺の被曝線量は0.76-4.56Gyで外部被曝線量に比較して少ない。臨床症状としては、疲労、頭痛、悪心、嘔吐、目の痛み、脱毛、皮膚紅斑、炎症、水泡、びらん、潰瘍が認められた。また、リンパ球の減少が全員に認められたが、被ばく後8週頃から回復し始め、白血球数は約8年後に正常に戻った。甲状腺については、1965年の検査で1例甲状腺腫が認められたが翌年の検査では認められていない。生殖細胞は2~3か月後には殆ど消滅したが、数年後には完全に回復した。末梢血リンパ球の染色体検査では、現在も高い異常頻度が認められている。3.科学者の取り組み
第五福竜丸の事故を受けて加熱する報道を前に、科学者達は事態を正当に評価する専門知識を有しておらず、意見の不一致や不統一が露呈することになった。こうした事態に対応して政府は「原爆被害者対策に関する調査研究連絡会議」を設立し、医学、環境衛生、食品衛生等について、行政官と科学者とで対策を講じた。また、事故後初の日本学術会議においては、まず「原子兵器の廃棄と原子力の有効な国際管理の確立を望む声明」を発表し、広く世界の科学者・研究組織に賛同を呼びかけた。また、基礎班、医学班、生物班、水産班、及び地球物理班からなる専門家約80名の「放射線影響調査特別委員会」(委員長=都築正男・日赤中央病院長)を新設し、総合的な放射線影響研究の推進を開始した。この委員会の主催によって1954年に「放射性物質の影響と利用に関する日米会議」が催された。米国原子力委員会の代表団と日本の研究者が出席したこの会議において、放射線の測定、許容量、汚染除去、食品汚染、RI利用といった項目が話し合われた。さらに、1954年度追加予算として、文部省科学研究費の特別枠「放射線特別研究」が設けられた。この研究費はその後10年間継続し、日本の放射線影響研究の進展、並びに研究者の裾野拡大に大きな役割を果たした。また、この委員会からの放射線研究のための研究所設置の勧告を受けて、1957年に放射線医学総合研究所が設立される運びとなった。この第五福竜丸被曝事故は、日本に重大な影響を与えたばかりではなく、世界においても大きな衝撃を与えた。米ソの膨大な核実験計画とともに、放射能への恐怖の世界的な広がりを受け、1955年に国連は、核実験による環境影響や健康影響を調査するための組織「原子放射線の影響に関する国連科学委員会 (UNSCEAR:United Nations Scientific Committee on the Effects of Atomic Radiation)」を設置、核兵器の廃絶・科学技術の平和利用を物理学者のアインシュタインが提唱し、湯川秀樹を含む9名の学者の賛同署名を得て1955年に提示された「ラッセル・アインシュタイン宣言」、さらにこの宣言に基づき、全ての核兵器および全ての戦争の廃絶を訴える科学者による「パグウォッシュ会議」が1957年に開催された。
4.日本放射線影響学会の設立
放射線影響研究の進展に伴い、これまで比較的関係の薄かった専門分野の研究者が相互の関係を密にしなければ、放射線による人体や環境への影響問題を解決することはできないとの認識が深まってきた。この観点から、有志10数名が集まって協議を始め、放射線影響研究を目的とする学会創設のための準備が進められ、 “放射線が人体と環境に与える影響およびこれに関する諸科学の進歩に寄与し、研究者間の連絡と協力を図ることを目的”として、1959年7月2日、東京大学医学部講堂で創立総会が行われ、日本放射線影響学会が設立された。初代会長には都築正男博士が選ばれた。さらに、同年10月27日〜29日の3日間、第1回研究発表会が東京大学農学部で開催され、86題の発表が行われた。また、学会誌として、Journal of Radiation Researchが1960年6月に発行されるに至った。5.日本放射線影響学会学術大会での企画
第46回大会(2003年10月6日~8日、京都市、内海博司大会長)において、第五福竜丸被曝事故に関連するシンポジウムが開催された。シンポジウム5:「ビキニから50年:環境放射能研究の過去と未来」
座長:村松康行(放医研)、廣瀬勝己(気象研)
S5-01 ビキニ水爆実験による第五福竜丸乗組員の被ばく
明石真言(放医研)
S5-02 フォールアウト全盛期の環境放射能
岡野真治(放影協)
S5-03 その後のマーシャル諸島の放射線環境
高田 純(広島大学)
S5-04 大気中の物質循環研究とフォールアウト
五十嵐康人(気象研)
S5-05 海洋中の物質循環研究とフォールアウト
山田正俊(放医研)
S5-06 総合討論:環境放射能研究の今後
コメンテーター:山本政儀(金沢大学)、高橋知之(京都大学)
さらに、2007年11月17日、千葉市で開催された日本放射線影響学会第50回大会(安藤興一大会長)に引き続き、同学会と放射線医学総合研究所との共催で、市民講座「第五福竜丸を振り返って」が開催された。この講演会では、第五福竜丸の当時の漁労長の見﨑吉男氏、静岡大学名誉教授長谷川圀彦氏、静岡新聞社会部記者の木村力氏が、それぞれ異なった視点から被曝事故を振り返った。さらに、それぞれの講演の後、明石真言氏(放射線医学総合研究所)の司会により、3氏を含めたパネルデイスカッションが行われた。