日本放射線影響学会 / THE JAPANESE RADIATION RESEARCH SOCIETY

がん診断前の乳房における脂質代謝遺伝子のアップレギュレーション

論文標題 Upregulation of lipid metabolism genes in the breast prior to cancer diagnosis
著者 Marino N, German R, Rao X, Simpson E, Liu S, Wan J, Liu Y, Sandusky G, Jacobsen M, Stoval M, Cao S, Storniolo AMV
雑誌名・巻・
 ページ・発行年
NPJ Breast Cancer, 6: 50, 2020
キーワード 乳腺発がん , 組織微小環境 , 脂質代謝 , 免疫細胞 , 前悪性腫瘍領域

► 論文リンク

【背景・目的】
日本人女性の乳がん罹患率はがんの中で最も高いが、その詳細なメカニズムは未だ明らかになっていない。前悪性腫瘍細胞は周囲の微小環境から、遊離脂肪酸、炎症性サイトカイン、細胞外マトリックス再構成酵素など、多数のシグナル因子にさらされている。これら因子は細胞間のクロストークを媒介し、細胞の挙動を劇的に変化させ、がんの発生と進行を引き起こす。微小環境の変化ががんの発生に与える影響を解明するにも、乳がんリスク評価に用いるバイオマーカーの開発のためにも前悪性腫瘍細胞集団ついて理解することが重要である。これまでの研究では乳房縮小術を受けた女性や、組織学的には正常であるが遺伝学的に変化したがん周囲の組織(以下、NAT、Normal Adjacent to the Tumor)がコントロールとして用いられてきた。しかし、これらの組織は増殖活性が亢進している可能性があり、遺伝子異常やエピジェネティックな異常を保有している可能性が高いため、コントロールとしての使用が疑問視されている。そこで本研究では、インディアナ大学サイモン総合がんセンターに設立されたSusan G. Komen Tissue Bankに保存される乳がん診断前の乳房組織(以下、感受性乳房)と健常人の正常な乳房組織(以下、健常乳房)を比較することで、乳がん発症の初期に起こる変化について明らかにすることを目的とした。

【主な結果】
1. 乳がんと診断される前後の病理組織と分子学的特徴
感受性乳房は、組織提供後に乳がんと診断され、遺伝子検査で既知の乳がん原因遺伝子に変異がない女性から提供を受けた。乳がんと診断される前後で組織を提供した女性2人の病理をみると、NATでは軽度過形成が認められ、がんを発症した乳房とは反対側の正常な乳房(以下、対側乳房)と感受性乳房は正常な表現型を示した。レーザーマイクロダイセクションによって採取した乳房上皮についてRNAシーケンス (RNA-Seq)を行った結果、NATと感受性乳房のトランスクリプトーム・プロファイルは高い類似性を示し、対側乳房とは明らかに異なっていた。Gene Ontology (GO) 解析によると、NATと感受性乳房の間で発現が異なる遺伝子は、細胞周期や細胞代謝を含む細胞の動態変化および代謝過程に関連しており、がんと診断される前であってもこれら特定の経路が早期に活性化されることが示唆された。

2. 感受性乳房と健常乳房の分子学的差異
7名の感受性乳房を提供した女性と人種、年齢、BMI、追跡期間をマッチさせた16名の女性の健常乳房について、レーザーマイクロダイセクションを用いて上皮、間質、脂肪に切り分け、それぞれに特徴的な遺伝子が発現していることを確認したのち、RNA-Seqを行った。月経期に依存するデータセットを除外し、GO解析、パスウェイ解析を行った結果、感受性乳房の上皮、間質、脂肪のそれぞれで脂質代謝に関連する遺伝子のアップレギュレーションと免疫に関連する遺伝子のダウンレギュレーションを示した。上皮、間質、脂肪において発現変動を示した遺伝子の上流には、脂肪新生、脂質代謝においてマスターレギュレーターとして知られるPparγまたはPparαが見いだされた。

3. 感受性乳房において、発現変動がみられた遺伝子についてのさらなる検証
新たに62名から提供を受けたサンプルを追加し、全感受性乳房を38サンプル、全健常乳房を47サンプルとした。発現上昇を示した脂質代謝遺伝子についてRT-qPCRと免疫組織化学染色を行った結果、感受性乳房において有意に発現が増加していることが確認された。RNA-Seqのデータから免疫細胞の存在比率や存在量を推定することができるCIBERSORTの結果、感受性乳房では不活性化あるいは休止状態のナチュラルキラー細胞(NK細胞)が増加していることが明らかとなった。また、免疫組織化学染色の結果、B細胞のマーカーとして知られるCD45、CD20が感受性乳房において有意に減少したことが確認され、腫瘍進展に有利に働く環境にあることが示唆された。

4. 感受性乳房における上皮-脂肪組織間クロストークの増加
上皮、間質、脂肪のクロストークを評価するために、共発現ネットワークを構築した。上皮-間質-脂肪の共発現解析より、感受性乳房における上皮-脂肪組織間の関連の増加が認められ、そこには代謝、細胞内シグナル伝達に関与する遺伝子が含まれることが確認された。これは上皮と脂肪組織間のクロストークの増加を示唆し、乳がん発生の初期段階で起こるコンパートメント間相互作用の重要な特性を表している。

【考察・まとめ】
本論文は、脂質代謝、脂肪新生に関与する遺伝子のアップレギュレーションが悪性腫瘍の臨床的発現に先立って起こり、乳房の脂肪組織が上皮コンパートメントとの活発なクロストークを通じて、腫瘍形成に重要な役割を果たすことを示した。放射線被ばくは炎症の誘発など組織の微小環境に多大な影響を及ぼし、発がんに寄与する可能性がある。乳腺は脂肪が豊富な組織であり、乳がん発症の初期段階の変化として脂肪の関与を示唆した本論文は、放射線誘発乳がんのメカニズムを解明する上で重要な知見を提供すると考えられる。