日本放射線影響学会 / THE JAPANESE RADIATION RESEARCH SOCIETY

システムズバイオロジーによる幹細胞探し:乳腺幹細胞はどこにあるのか?

論文標題 Models of Breast Morphogenesis Based on Localization of Stem Cells in the Developing Mammary Lobule
著者 Honeth G, Schiavinotto T, Vaggi F, Marlow R, Kanno T, Shinomiya I, Lombardi S, Buchupalli B, Graham R, Gazinska P, Ramalingam V, Burchell J, Purushotham AD, Pinder SE, Csikasz-Nagy A, Dontu G.
雑誌名・巻・
 ページ・発行年
Stem Cell Reports, 4, 699-711, 2015
キーワード 幹細胞 , システムズバイオロジー , 乳腺

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宝探しをするときには、様々な探知機を駆使してくまなく探すだけでなく、宝物を隠した人の心理や行動を想像することも大切である。本論文は、まだ手がかりの少ない乳腺幹細胞の局在について、様々なマーカーを駆使するばかりでなく、幹細胞の局在パターンが形成される過程を数理モデル化することでアプローチした研究の報告である。
放射線被ばくによるがんのリスクが高い臓器の一つに乳腺がある。乳腺は上皮性の腺管が何重にも分岐した構造を持つ臓器である。腺管の先端あるいは側方には、さらに細かく何重にも繰り返し分岐した細管から成るブロッコリ状の構造(小葉)が多く突出している。ヒトの乳がんは小葉内の腺管から発生することが多い。これらのことから、放射線は小葉に存在する幹細胞(比較的未分化な前駆細胞を含む)を標的として、乳がんを発生させていると考えられる。
残念ながら、乳腺における幹細胞の局在はよくわかっていない。これまでに、免疫染色で確認できるいくつかのマーカーが報告されているが、それらの相互関係(どのマーカーが幹細胞のマーカーなのか)は不明である。本論文では、小葉の幹細胞の挙動を何通りかに数理モデル化して、マーカー分子の発現パターンを説明できるモデルを選択するという手法により、小葉の幹細胞の位置を予測した研究である。

<腺管の一次元数理モデル>
著者らは、まず分岐を無視して、腺管を一次元の細胞の列であると考えたモデルを作製するところから、研究をスタートしている。ここでは、小葉を形成する際の幹細胞の挙動に関して、以下の3つの変数(それぞれ2通りの選択肢がある)を考え、計8通りのモデルを作製した。3つの変数及び選択肢とは、(1) 分裂様式(選択肢:1つの幹細胞と1つの分化細胞を生成する非対称分裂、もしくは、2つの分化細胞を生成する対称分裂)、(2) 分裂頻度(選択肢:速いもしくは遅い)、(3) 分裂後の幹細胞の位置(選択肢:腺管の伸長方向もしくはその逆方向)、である。これらのモデルの挙動の解析から、次のことが結論された。すなわち、非対称分裂及び速い分裂速度持つモデルでは幹細胞と分化細胞が一次元の乳管内の広い領域に混在するが、それ以外のモデルでは幹細胞と分化細胞はそれぞれが集合して別々の領域に局在する。また、分裂後に幹細胞が腺管の伸長方向に存在するモデルでは、腺管の伸長部に幹細胞が存在するが、それ以外のモデルでは分化細胞が存在する。

<観察結果と整合する一次元モデルの選択>
次に、これまでに報告のあるいくつかのマーカーやその候補について、実際の乳腺の小葉における発現パターンを、免疫染色によって確認した。すると、ALDH1A1という幹細胞マーカー候補が、他の幹細胞マーカー候補の多くと共局在すること、このマーカーを発現する細胞は複数の系譜の分化細胞マーカーを共発現していて分化決定されていないと考えられること、このマーカーを発現する細胞は形態学的にも分化の兆候が明確でないことが示唆された。そこでALDH1A1を小葉の幹細胞マーカーであると考えた。このマーカーは小葉の先端(腺管の伸長方向と同一の側)に存在していた。そのため、上記のモデルのうち、分裂後の幹細胞の位置が伸長方向側にあるモデルが、観察結果と整合すると考えられた。また、分化細胞マーカー(エストロゲン受容体α)の局在を観察すると、分化細胞は広い領域に点在するパターンを示していた。このことから、上記のモデルのうちで、非対称分裂及び速い分裂速度持つモデルが観察結果をよく説明すると考えられた。以上から、8つのモデルのうち、(1) 分裂様式は非対称分裂、(2) 分裂頻度は速い、(3) 分裂後の幹細胞の位置は腺管の伸長方向、のモデルのみが観察結果と整合すると結論された。

<小葉の三次元フラクタルモデルの構築>
ここまでは小葉を一次元の乳管であると仮定していたが、次に実際の小葉における繰り返し分岐構造を再現するモデルを作製した。2本の分岐をスケールダウンしながら繰り返すと、自己相似構造を持つ図形(すなわちフラクタル)が形成される。そこで小葉をフラクタルであると仮定し、分岐の頻度、分岐の角度、n回目の分岐面に対するn+1回目の分岐面の角度、n回目の分岐に対するn+1回目の分岐のスケールダウンの程度、分岐の総回数等の変数を決定すると小葉状のフラクタルが形成されるモデルを作製した。このモデルは、実際の小葉の病理標本から再構成した腺管の三次元データを元に、それに最も適合するフラクタルを決定することができる。実際の小葉は小型ものから大型のものまであり、1型〜3型に分類されている。これらはフラクタルの分岐回数が少ないまたは多いことに対応していた。また、ALDH1A1染色した小葉の三次元構造データを用いて、ALDH1A1陽性部位の局在を、構成されたフラクタルと重ねた。すると、陽性部位は分岐部位もしくは腺管の先端であることが明確になった。

<乳がんリスク因子と、小型の小葉における幹細胞頻度との関連>
上記のモデルが示唆するように、大型の小葉は分岐回数が多く、腺管の伸長距離も長いことから、大型の小葉においては幹細胞の総分裂回数が多いことが示唆される。幹細胞の集団は分裂回数を経るほど縮小すると考えられることから、大型の小葉には幹細胞数が少ないことが予測される。そこで実際の種々の大きさの小葉の標本において、ALDH1A1陽性細胞数を比較したところ、小型の小葉ほど多くの陽性細胞を含むことが確認された。
小葉内の腺管から乳がんが発生することが知られる。そのため、小葉内の幹細胞数が多いほど、乳がんリスクも高いと予測される。そこで、乳がんリスク因子として有名な、(1)妊娠・出産経験がない(未経産である)こと、(2) 遺伝性乳がん卵巣がん症候群の保因(BRCA1またはBRCA2遺伝子変異の保有)、について解析した。すると、保因者の1型小葉には非保因者の1型小葉よりもALDH1A1陽性細胞が多いことがわかった。また、非保因者と保因者を層別した場合、未経産婦の1型小葉には、経産婦の1型小葉よりも多くのALDH1A1陽性細胞が含まれることが確認された。このように、これらの乳がんリスク因子は1型小葉中の幹細胞数と関連することが確認された。

<結語>
本研究の新奇性は、乳腺の幹細胞の分裂様式に関して、数理モデルと観察結果の比較によって推察したことである。小葉のサイズとリスク因子との関連については、過去の報告と整合する観察結果が得られている。これまでマウスを用いて乳腺幹細胞の研究が多くなされているが、マウスではヒトやラットと異なり小葉があまり発達していないため、小葉の幹細胞については知見が多くない。小葉の幹細胞について知見を得た点も、本研究の新奇性の一つである。
放射線による乳がん誘発の標的細胞が小葉中の腺管の幹細胞かもしれないと、冒頭に述べた。造血系や腸管と違い、乳腺の幹細胞については多くのことがまだ良く分かっていない。システムズバイオロジー的なアプローチを含め、一般生物学的研究と放射線生物学的研究を並行して進めることが必要であろう。