日本放射線影響学会 / THE JAPANESE RADIATION RESEARCH SOCIETY

網膜色素変性症の治療モデルとしての低線量(率)照射における神経変性の遅延の解析

論文標題 Low-dose-rate, low-dose irradiation delays neurodegeneration in a model of retinitis pigmentosa
著者 Otani A, Kojima H, Guo C, Oishi A, Yoshimura N.
雑誌名・巻・
 ページ・発行年
Am J Pathol. 180, 328-236, 2012
キーワード 網膜色素変性症 , 低線量放射線 , 低線量膣放射線 , 神経変性 , ホルミシス

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 ホルミシスとはある物質の高濃度暴露では有害であるのに、低濃度であれば逆に有益な効果をもたらすという現象をさす。放射線被爆でもこの現象は報告されており、放射線ホルミシスと呼ばれている。今回紹介する論文は遺伝性網膜変性マウスモデルにおいて放射線ホルミシス効果が確認されたものである。低線量・低線量率放射線を照射することにより遺伝的網膜神経変性の進行が抑制された。これまでがんの転移率減少、腫瘍の拡大抑制、糖尿病症状の軽減などが放射線ホルミシスの個体レベルの効果として報告されているが、神経疾患への効果についての報告はこれが初めてである。失明原因の上位でありかつ治療法の存在しない網膜変性疾患への新しい治療アプローチの提示でもある。
 網膜色素変性マウスモデルとして rd10 (B6.CXB1-Pde6brd10/J)を主に使った。このモデルは視細胞における光代謝に関与する因子の遺伝子変異を持つもので、ヒトの網膜色素変性にも同じ変異の存在が知られている。0mGyから2000mGyまでの放射線(ガンマ線)を照射したところ、650mGy照射をピークとして網膜変性への保護効果が認められた。保護効果は網膜厚(視細胞層)計測によって判断している。さらに650mGy照射の照射時間を変えて3つの線量率(26, 109, 1079mGy/min)で照射したところ、26mGy/minで最も強い網膜保護効果が観察された。このガンマ線照射による網膜保護効果は使用した網膜変性モデルに対し、恒久的な保護効果をもたらすものではない。そこで複数回照射して効果の延長が可能であるか調べた。視細胞層厚で比較すると複数回照射の効果は最小限であったが、網膜の内層厚、錐体細胞数で比較すると複数回照射の効果が確認された。使用したrd10マウスモデルは網膜に2つある視細胞、桿体と錐体細胞の内、桿体細胞の遺伝子異常による網膜変性である。錐体細胞やその他の網膜細胞が二次的に障害されていくことが知られている。また、網膜視細胞層の多くは桿体細胞からなり、錐体細胞は少数である。つまり今回の放射線照射では遺伝子異常のある桿体細胞の変性も保護することが確認できたが、その効果は遺伝子変性のない錐体細胞やその他の網膜細胞でより強く観察された。遺伝的変異を持つ細胞自体への保護効果より二次的変性に対する保護効果が強いことを示唆するが、網膜色素変性の場合、錐体細胞の二次的変性を抑えることの臨床的意義は大きい。錐体細胞は明視をつかさどる視細胞であり、通常我々の視力や色覚は錐体細胞によって得られているものである。錐体細胞変性が抑えられれば多くの患者さんで失明に至らず、視力や色覚の維持ができる可能性がある。
 低線量・低線量率放射線の網膜に対する影響のメカニズムを調べた。網膜色素変性ではアポトーシスによる視細胞死が知られている。また、低線量・低線量率放射線照射により網膜TUNEL陽性細胞の現象が観察された。そこでmRNAアレイを用いてアポトーシス関連の因子の動きを調べた。低線量放射線照射でいくつかの因子の増減が見られたが、 Prdx2 (peroxiredoxin-2) の発現亢進(563%)が最も顕著であった。Prdx2はperoxiredoxin familyの一つで、抗酸化ストレス作用が知られている。網膜変性マウスにおいても、正常マウスにおいても低線量・低線量率放射線照射で網膜内の発現がRT-PCR、免疫染色、in situハイブリダイゼーションウエスタンブロットで確認された。さらに、siRNAを用いて網膜内Prdx2をサイレンシングしたところ、低線量・低線量率放射線による網膜保護効果の減弱が観察された。これらの実験から、低線量・低線量率放射線照射による網膜神経ホルミシス効果の一部はPrdx2を介しているのではないかと推測された。
 この研究では低線量・低線量率放射線照射のホルミシス効果を網膜神経組織において形態的、機能的に確認することができた。網膜は微細な組織であるが、形態的にも機能的にも小さな変化をとらえやすいという特徴を持つ。今回の結果はその網膜の実験における特性が生かされたのではないかと考える。マウスモデルと違い、ヒトの網膜色素変性は一生かけてゆっくり進行する疾患である。失明原因の上位であるにもかかわらず、まだ治療法は存在しない。臨床応用へはまだまだ証明しなくてはならない事項が数多くあるが、今後の発展に期待したい。